土砂降りのようになる
全然更新しないのに、見に来てくださっている方ありがとうございます。
久しぶりの更新なのに、暗い内容で申し訳ない。
元同僚の女性が40代で急死しました。
色々考えてしまってどうしようもないので、文章にまとめようと思います。
異動してからもご飯に行ったりしていたのですが、
もう1年くらいご無沙汰していて。
そのうち会いましょうね、ご飯行きましょうね、と言ってるうちに
亡くなってしまった。
私は親族以外で、仲良くしてた人が亡くなるのは初めてで、
想像以上に色々な感情が押し寄せてくるものだなぁと、
オーバー30にして、ひとつまた老獪した気がしています。
22歳のときに地元の同窓会で、
「そういえば○○ちゃん、元気?何してるのかな」
と聞いたら、
「昨年、自殺しちゃったんだよ」
と言われたとき以来の、あの、
「あ、人って若くしても死んじゃうんだ」という単純な気づき。
そして、衝撃。
幼稚園がいっしょで、私が小さい頃の写真にも写ってるんですよ。
この少女がその後、突発的に手首に刃を当てるなんて、幼い私は想像もしてなかった。
私は従兄弟が小学生で事故死しているので、
「人が生きているのは確率の高い偶然」
という考え方は幼い頃からあるのですが、それでも、ショックで。
それが最後になると全く予期しない別れからの、永遠の別れって、本当に残酷で。
両祖父母や伯父は見送りましたが、もう老人と呼ばれる人の病死とはまた違いますよね。
まだ幼さの残る顔のまま、成長しない従兄弟や地元の友達。
それが、その人を思い出すときにじわじわと悲しい。
今の自分、大人の、年増になってしまった自分との違い、月日の流れが、悲しいです。
小学校のとき、3歳下の従兄弟が亡くなった。
20代になりたて、幼馴染が亡くなっていたことを知る。
そして今回、30を数年過ぎたころに。
「人が生きているのは確率の高い偶然」論を、私が忘れつつある頃に死がやってくる。
人の死って、その人ともう会えない、声が聞けない、笑いあえないんだと、
一人の人間とのお別れ、一人の友人を喪失したことの辛さがある。
正直まだ、あの人がこの世にいないことが信じられません。
健康を絵に描いたような人だったから。
ただ、それだけじゃない。
この辛さは、存在の喪失への悼みだけじゃないんじゃないかなと、ふと、思って。
とてもドライというか、私は冷たいのかな?と不安にもなるんですけどね、
身近な人の死によって、己の死への恐怖がまざまざと蘇る辛さもあると思うんですよ。
生きている限り、死ぬというのは頭ではわかっている。
だけど、まだ。
だけど、まだまだ。
自分は、自分だけは、生きていくと思っている。
思い込んでいる。
「健康診断、また引っかかっちゃったよ〜」と言いつつ、
「でも、へいき」
と、謎の確信がある。
その楽天的な考えがなければ、人って死に向かう恐怖に押しつぶされちゃうんじゃないだろうか。
だから普段から「私はいつか死ぬんだ!!!!」と考えて思いつめることはないけれど、
身近な人によって、原始的な恐怖に引き戻されるのかもしれない。
自分もいつか死ぬし、それがいつかはわからない。
明日の朝、目が覚めないかもしれない。
その元同僚は、出勤途中に倒れ、1週間入院したけれども帰らぬ人になりました。
馬車馬のように働くひとだった。
何年か前に、twitterでね、
「30になると、ぽつりぽつりと人が死ぬ。40になると、それが土砂降りになる」
みたいなつぶやきを見たんですよ。
(元ツイート見つけられなくてすいません)
こんなのがね、土砂降りのようになったら、身が持たないですよ。
でも、生きていくうちにね、もっと色々辛いことを経験していってさ、
守るべき存在だとか、そういうものを得てさ、
人は土砂降りの中で指す傘を得るのかもしれないですね。
そうであってほしいですね。