永久欠番、ではない
1年以上更新が空いてしまいました。
別にすごく忙しかったわけでもないのですが、なんとなく更新しないまま月日がたっていました。
日々の思っていることはtwitterに書いているので、それで書きたい欲が満たされてしまっていて。
でもたまには、こちらも更新しようと思います。
こんなブログでも、過去にはあたたかい応援のコメントをくださっている方もいて、
読者になってくださっている方も、少ないながらもいて。
細々と、続けていけたらいいなと思っております。
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先日、中学校から仲良くしている友達の家に遊びに行ってきました。
友達には2人の子がいて、上の子は5歳半。かわいいさかりです。
とてもめんこい女の子で、しっかりしています。
いまだに意味不明な動きをして、「この子はどこの星から来たの?」と思わせる甥とは別の生き物みたいです。ちなみに同い年。
友達の子は、「あそぼう、あそぼう」と私を誘ってくれ、
私も遊ぶんですが、友達に会うのも久しぶりなわけでして。
友達とついつい話に夢中になって、友達の子と遊ぶのもそっちのけになることが多かった。
私たちが話していても「ねえねえ!見てみて!!ねえねええ!ねえええええ」とくじけずに話しかけてくる友達の子。
「すぐ話す!」と言ってちょっとむくれる姿も愛らしかったです。
友達はLINEで「あの子がうざくてごめんね笑」と謝ってくれたのですが、
正直、今日のあの子の姿に、私は人間の原始的な欲求を見たね。
人間って、自分に注目してほしい、自分が中心でありたい、自分にかまってほしい!っていう欲求がある。
承認欲求・・・というんだろうか。
そこまでじゃなくても、人に無関心でいられることってこたえるんだよね。
ジョージ朝倉のマンガだったかな。
「人って、必要とされてないと死んでるのといっしょ。私がいなかったら、あなた死んでるね」みたいな台詞があって。
人間は社会的な存在であるからして、人に認識してもらえないと、
その人の存在自体あやふやなものになる気がする。
極端に言うと、肉体の死がすなわち存在の死ではない。
私が今死んだら、多くの人がその死を悲しんでくれると思う。
家族、親戚、友達、同僚、、、
少し関わっただけの人でも、私を思い出してつかの間さみしがってくれると思う。
でも、30年たったらどうだろう。
60年たったら?
私を知っている人で生きている人のほうが少なくなり、
独身子無しの私の不在を嘆く人はいなくなる。
私という人間が生きていた、存在していたことすら、なかったことのようになる。
その時、私は本当に死ぬんだろう。
ところで、中島みゆきの「永久欠番」という曲の歌詞をご存知だろうか。
100年前も100年後も 私がいないことでは同じ
同じことなのに
生きていたことが帳消しになると思えば悲しい
本当に、悲しい